雪乃と真利子と言う女。其のニ
私はどうも脈がありそうなので、俄かに速戦即決に方針を転換した。
と言っても今夜は谷川夫妻の相談事に付き合わなくては成らない。
『どうだい明後日の午後七時に〇〇町の時計塔の前で俺と
デートしないかい』
真利子の顔がまるで少女の様にはにかんだ。
「ええっ、私と・・・いいわ」
真利子は暫く躊躇ったものの決断を下した。かっての手の出ない学園の高嶺の花は、
いまや誰でも手折れる路傍の花に成ってしまったのだろうか。
割烹で行われた学年親睦会がはねて外に出るともう暗かった。
真利子が同級生の人目を避けるように私に近付いてきて、
「明後日のデートのお約束は本気なのでしょうね」
と真剣な眼差しで言う。
『もちろんだとも』
「待ってる。きっとよ」
真利子はそう言ってさっさと暗闇に姿を消した。
それにしても杉山真利子は純粋に学生時代の思い出話だけで、
還暦過ぎた男と女が美しいデートに終ると思って居るのだろうか。
彼女とてもう生娘では無いので有る。結婚生活も二度経験していると聞く。
それにしてもあの真剣さは何なんだろう。
夜の歓楽街の女や酒に未練があるまだまだ元気な連中の三次会への
誘惑を振り切って、私と谷川はタクシーに乗った。
「どうせ君は一人暮らしの自由の身で久し振りに故郷に帰って来た遠来の客だ。
一週間ぐらい俺の家を根城にしてゆっくり遊んで行けよ」
『そうかい。じゃあ暫らく振りに美味い酒を飲ませてもらうぜ』
「おう。なんぼでも飲んでくれ」
**
谷川は杉山真理子の半生を語って呉れた。
杉山真利子は大学を卒業して一流企業のOLに成り、財閥の御曹司に見初められ、
結婚はしたものの半年で破局、その原因は余りにも完璧すぎる家事運営に、
かえって息が詰まる思いの夫から嫌われたと言われていたが、
真相は敬虔なクリスチャンとしてての誤った潔癖性から肝心の夫婦の性生活を
嫌悪したためだとも言われていた。
そして二度目に結婚したのは一流大学卒業の優秀な会社員だったものの、
夫婦仲は悪く夫は外に情婦を作り、借金だらけとなってサラ金業者に追い回される
地獄の生活を二十年して無一文のまま離婚し、今ではビルの掃除婦をして
細々生計を立てて居るとの事だった。
石川は学生時代、柔道部に所属して良い意味の親分肌の番長だった。
私は運動は苦手で文芸部に所属していたが、中学の時に谷川と同級になり
同じ高校へ進学し、対照的な性格ながら、何故か馬が合い、大学生時代には
酒が飲みたくなると谷川の家に遊びに行って谷川と飲み明かしたものである。
その懐かしい清酒蔵元の谷川酒造の店舗兼邸宅に、タクシーが着いた。
『新しい杉玉がぶら下がって居るではないか。新酒が出来たんだな』
造り酒屋は秋の暮れ辺りに新酒が出来ると杉の青葉で丸いサッカーボールの様な
杉玉(酒林ともいう)を作って店の玄関口の軒先にぶら下げるのである。
「おう、うまいやつを飲ませてやるからな」
赤御影石が床に張られた玄関を入ると、とりあえず谷川酒造の事務所に通された。
事務所の壁には、国税局の新酒鑑評会や、県酒造組合連合会の清酒品評会の
賞状がずらりと飾られて居る。
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谷川と暫らく清酒についての雑談をして居ると、大学生時代からの顔見知りの
杜氏さんが通りかかった。
「大旦那、早いお帰りでしたな。おっ、これはお珍しい顔だ。確か長野さんでしたな」
「おう、こいつ新酒の匂いを嗅ぎ付けてきたんだ」
杜氏は笑って通り過ぎた。間も無く住み込みのお勝手さんがお茶を運んできた。
きっと杜氏が命じたのに違い無かった。
私は新酒の匂いよりも谷川が言わんとすることがおよそ見当は付いていたので、
本当は若妻の匂いにつられてやって来た様なものだなと内心苦笑していた。
「おい、社長に長野君を連れて来たと言え」
「はい、長野さんとだけ言えばお分かりに成るんでしょうか」
「分かる分かる。長野は中学時代からの友人だから」
社長とは谷川の後妻に入った若い奥さんの肩書きである。
お勝手さんは最大限の笑顔を私に残して立ち去った。
やがて社長こと谷川夫人が現れた。
「あらいらっしゃい。お待ちしておりましたのよ」
と言って頬をぽっと赤らめた。
「これはこれは、谷川酒造の女社長さんおですか」
ベージュのスカートに、白のブラウスの上に緑色のカーディガンを羽織った
ラフな姿だったが、やはり美人は何を着てもよく似合うものだ。
耳に付けた金色のピアスがキラキラと光る。
「雪乃、今日は友人としてではなく俺達夫婦の仲人として来て頂いたんだからな」
「あなた、それはもう・・・」
木造合掌造りの酒造場の石の床の冷え冷えとした部屋を幾つか通り抜けて
裏手にある谷川の私邸に招き入れられた。
明治時代に建築された木造の重厚な造りの家屋の奥座敷に招き入れられると、
そこには火鉢の木炭が赤々とおこされて部屋は暖められていた。
そして年代物らしい応接台の上には谷川夫人の手作りらしい、
あっさりした酒の席主体の鴨ロースとせりの胡麻和えの二品の料理が並んでいた。
「お酒の準備をしますからね」
谷川夫人は小笠原流の優雅な身のこなしで雪見障子の向こうに姿を消した。
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ご挨拶
Author:万屋 太郎
2006年9月に初稿をUPしてから
早くも14年が経過いたしました。
生まれ育った横浜を離れて6年前の1月に、
静岡県伊東市に移住いたしました。
山あり、湖あり、海あり、の自然環境はバッグンです。
伊東には多くの文人が別荘を持ち、多くの作品を
手がけて居られるようです、私もあやかって、
この自然環境の中での創作活動が出来ればと思っております。
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