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詩(うた)と小説で描く「愛の世界」 初恋の男を思い続けて生きた女Ⅱ。其の二
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初恋の男を思い続けて生きた女Ⅱ。其の二

◇雅恵をいじめるな◇
中学生
話は今から30年前に遡ります。私は中学2年まで青森の田舎町に住んでいました。
それがどうして東京にでてくるようになったかと言うと、そこには複雑な事情があったのです。

「雅恵、母ちゃんはもう我慢の限界だ。おまえには申し訳ないけんど、
 父ちゃんと離婚する事にした。ごめんよ、おまえを片親にする事になっちまって」
「いいよ母ちゃん。母ちゃんはもう十分辛抱したんだもん、仕方ねさ」
私の父は酷い放蕩者でした。飲む打つ買うの三拍子揃った道楽者で、
多額の借金を背負っていました。長い間、母はそれはそれは苦労させられていました。
その苦労を知っているからこそ、私は離婚に賛成したのです。

「私、母ちゃんに従いてくよ。でも、これからどうすんの?」
「そう言ってくれると思ってたよ。母ちゃん色々考えたんだけど、
 東京さ行こうかと思ってんだ。離婚なんかしたら、もうこの町にはいられね。
 東京さ行けば、親子ふたり何とか食べていけるんじゃねかな」
「東京!いいね。うん、二人で東京でやり直そう」

父と母が協議離婚したあと、私と母は不安と希望を胸に上京してきました。
ところがやはり、都会は田舎者の親子を温かく迎えてはくれませんでした。
まず住む所を探すのが一苦労でした。保証人もいない母子家庭の親子に、
不動産屋はいい顔をしませんでした。足を棒にしたあげく、ようやく私達は
一軒のぼろアパートを借りる事ができました。加えて、母は生活の為に職探しに
奔走しなければなりませんでした。けれど、これといって手に職の無い40女が
そうそう簡単に就職できるはずもありません。

製パン工場に就職が決まるまで何ヶ月もかかりました。が、給料は安く、
親子ふたり暮らしてゆくのに十分とはいえませんでした。

そして私と言えば、中学3年の春、東京郊外の市立中学へ編入したのですが、
新しい環境に中々馴染む事が出来ませんでした。何せ私は隠しようもない
田舎っぺの上に、誰が見ても貧乏丸出しの惨めな少女だったのです。

そんな私が、いくら郊外とはいえ、東京の子たちに快く受け容れられる
訳がありませんでした。私の新しい学校生活は悲惨を極めました。

「やーい。ずーずー弁のいなかっぺェ!近くに寄るな、訛りがうつる」
「やーね、いつも汚いブラウスを着てさ。なんか、くさーい!」
「おかしいな、給食費がない。今朝ちゃんと持って来たはずなのに、
 雅恵、あんた盗んだんじゃないのっ」
昨今学校でのイジメが問題になっていますが、あの時の私もまさに典型的な
いじめられっ子でした。本当に辛くて辛くて何度、青森に帰りたいと思った事でしょう。


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中学生02
どんなに辛くとも私は、いじめの事は母に打ち明けませんでした。
母だって職場でとても苦労していたようなので、
これ以上心配をか掛けたく無かったのです。

私は初め一人でジッとイジメに耐えていました。
けれど神様は私を見捨てはしませんでした。
そんな私に救世主とも言える少年が現れたのです。

「やい、おまえたち!向こうへ行けっ。それ以上雅恵を苛めるな!」
それがクラスメートの武朗でした。武朗は陰になり日向にして私を庇ってくれました。
「いつもありがとう、武朗」
「いいんだ。あいつら弱い者いじめして優越感に浸っている。まったく最低の奴らだよ」
武朗はたった一人の私の味方でした。そう言う武朗も、私と同じ様な身の上だったのです。

「あいつらだって、父親をなくせばオレ達と同じ立場になるって言うのに。
 オレたちとあいつらの差は、父親がいるかいないかって事だけじゃないか」
武朗も私と同様母子家庭の少年でした。武朗のところは死別だったけれど、
お互い父親がいないことには変わりありません。
武朗の母親は、場末の飲み屋で働いていると言う事でした。

武朗だって決して楽しい学校生活を送って居た訳では有りませんでした。
にも関わらず。私が苛められていると必ず私を助けてくれたのです。
私達は急速に親しくなってゆきました。下世話な言葉で言えば、
同病相哀れむと言う事になるのでしょうか、
とにかく私達は誰よりも固い絆で結ばれていたのです。

最初、私と武朗はお互いの傷を舐めあっていただけに過ぎなかったのかも知れません。
しかし15歳の男と女の間には、何時しか同情以上の感情が芽生えていたのです。
私達の付き合いは、学校内のみに止まりませんでした。
放課後、私と武朗はデートの真似事をしていました。デートとは言っても、もちろん貧しい
私達のことでしたから、映画や喫茶店に行くと言う訳にはいきませんでした。
私達のデート場所は、もっぱら、河川敷や野山でした。

私達の住んでいたH市は、いまでこそ洒落た住宅地に成っていますが、
当時は自然に恵まれた田園風景に囲まれていました。
ですから、お金を掛けずにデート出来る場所も豊富だったのです。
goro-noguchi.jpg
私達はよく青々と生い茂る土手に坐って、他愛も無いお喋りに興じていました。
初めはそんな中学生らしい行為で満足していまた。ところが、そんな微笑ましい行為も
長続きしませんでした。15歳と言えば、子供でない大人でもない微妙な年頃です。
私達は性的好奇心一杯の年代でした。

「なあ雅恵。今日は黒い雲の森に行って見ないか」
ある晴れた初夏の日、武朗が私を誘いました。黒い雲の森と言うのは、
町外れにある黒く見えるくらいに緑の濃い林のことでした。

山の上から見下ろすと、まるで黒い雲の塊に見える森の中へ私達は入って行きました。
そこは、昔から悪い精霊が宿っているとか、恐ろしい化け物が出るとか噂されている
森でした。滅多に子供達が足を踏み入れる事の無い森を探索するのは、
私にとっては勇気のいることでした。けれども私には武朗が付いていました。

私は武朗の言うことなら何でも聞く様になっていました。
私達は口もきかずに、鬱蒼とした森の中へ分け入って行きました。
森が深くなって行けば行くほど、私は心細くなっていきました。

「改札口で、君のこといつも待ったものでしたァ」
と、武朗が歌いはじめたではありませんか。私は思わず彼の美声に聞き惚れました。
武朗はとても歌が上手でした。将来は歌手になりたい、と希望を持っていたようでした。

その武朗が高いキーで、野口五郎の『私鉄沿線』を歌うと、私の不安も一遍に吹き飛びました。
『私鉄沿線』
私はステレオもテープレコーダーも持っては居ませんでしたが、武朗が歌う歌は
のど自慢の素人が歌う歌など足元にも及びませんでした。
『私鉄沿線』を歌い終わると、今度は『青いりんご』を歌い始めました。
どちらも私が大好きな歌でした。
『青いりんご』
「あんな所に小屋がある。あそこに入って見ようよ」
と半分崩れかかったような小屋に行き着きました。武朗がこう言い出したとき、
私はある予感を覚えたのです。(きっとあそこで何かが起こる・・・)
妖しい予感に震えながらも、
私は武朗の後ろに従って朽ちかけた森小屋の中へと入っていったのです。
  1. 愛と死を見つめて
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ご挨拶

万屋 太郎

Author:万屋 太郎
2006年9月に初稿をUPしてから
早くも14年が経過いたしました。

生まれ育った横浜を離れて6年前の1月に、
静岡県伊東市に移住いたしました。
山あり、湖あり、海あり、の自然環境はバッグンです。
伊東には多くの文人が別荘を持ち、多くの作品を
手がけて居られるようです、私もあやかって、
この自然環境の中での創作活動が出来ればと思っております。

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